『17年間の思いをこの旅行に…』

『呼子のイカの姿造り』

久しぶりにかなりの長文になります

先日の金曜日の夕方、優子さんと息子シエナは佐久病院に食物アレルギーの経過を聞きに行ってきました。

この春、高校3年生になるウチの息子、知っている方も多いかと思いますが、重度の食物アレルギーを持って生まれてきました…

まだ赤ちゃんの時、母乳ではなく粉ミルクをあげると吐いてしまい、きっと粉ミルクが嫌いなのか、粉ミルクがあわない…そんな程度に思っていました
離乳食が始まり、検診で教わった通り、本に書いてあるような食事を普通に作っていましたが、食べると嘔吐し唇が腫れ全身にじんましんが出たりと…
そんなことが数日続き、病院に行くと食物アレルギーの可能性があると言われ、そのまま血液検査を
結果、『小麦、卵、乳、大豆』がかなりの数値で食物アレルギーと診断され、重ねて野菜をはじめフルーツ、ハウスダスト、ダニなど25種類以上のアレルギーがあると診断されました…
まだ2歳になるかならないかくらいでしたが、とりあえず『何を食べさせればいいのか…?』初めての子育てでの不安と、重ねて重度の喘息を持っていたので、喘息からの入退院の日々で、この子のこれからの生活への不安でいっぱいの毎日でした。

幼稚園にあがる頃には、乳と大豆のアレルギーは無くなりましたが、小麦と卵の数値は下がるどころか、なお上がり続け、幼稚園児になったこともあり実家だけでなく、お友達の家に遊びに連れて行く機会も増え、知らず知らずにパンや小麦を使ったお菓子を当たり前にいただくことも増え、当然アレルギーのこと色々な方に伝えてはいましたが、うっかりだったりお菓子会社の成分記載漏れやミスで誤って食べてしまいアナフィラキシーショックを起こし、呼吸困難になり救急車で運ばれることも何度かありました。
それと同時に、シエナには食物アレルギーのことをゆっくりとわかりやすく教えながら、誰かにもらった食べ物をむやみに口にしないことを教え、お菓子などの裏に書かれた成分表から小麦、卵、卵白、卵黄などの漢字は自分で読むことや相手に自分は食物アレルギーであることを3歳くらいには伝えられる子供になり、小さいながらも自分で自分を守ることを覚えはじめていました。
もちろん、私たちもソーセージやハムだけでなく、どんな食料品も成分表を必ず見る習慣をつけ、『誤って』のない生活を心がけてきました。
幼稚園は、アレルギーの代替え食をしてくださる栄養士さんがきちんといらっしゃる信学会の幼稚園を選び、日々栄養士さんとやり取りをし、おかげ様で安心な給食をいただくことができました。

次に私たちの不安は、小学校での給食でした。
色々な本やアレルギーの子を持つ親の会などでお話しをお聞きすると、全校で数人しかいない食物アレルギーの生徒に対し(一人一人アレルギーが違うので対応が難しく)ほとんどの場合、家からお弁当を持って行くしかない。というのが当時の現状でしたが、そのお弁当という環境は小学生にはなかなか難しく、みんなと違うということは恰好のいじめの対象にされ、またみんなが楽しい給食の時間を過ごす中、自分だけが違うという辛さに耐えきれず不登校になるという子もいると先輩のお母さんや体験談の本から知り、もちろん幼稚園時代でも友達から、心無い言葉をしばし言われ小学校への不安は募っていました。
だから、私たちはそんな状況を少しでも回避したく、小学校に入学する3カ月前に、小学校の学校長宛に手紙を書き、教育委員会を通じて、教育委員長、学校長にお時間を作って頂き、私たちの抱える不安を聞いて頂き、その中で私たちの思いはお弁当ではなく、だからといって代替え食を全校で一人の生徒のために作ってもらうのでもなく、事前に献立表と成分表を頂き、シエナが食べれるもの、例えば、ご飯や味噌汁、焼き魚、フルーツやゼリーなどをあらかじめチェックをし、それは普通に学校で作って頂く(佐久穂町は自校給食です)その他のパン、麺類、パスタ、卵料理、ハンバーグやカレー、シチュー(ルーが小麦)マヨネーズを使ったサラダなどは、優子さんが家で作り、朝9時頃給食室に届け、その際給食の先生と明日の献立のやり取りもする
給食の時間になると、息子は自分の代替えの給食を持って別室に行き、電子レンジで温め、みんなと同じ皿に盛り付け、みんなと同じように食べていました。
私たちは『みんなと同じ食器でみんなと同じ給食を食べる』そんな小学校生活を送れるお願いをし、それをきちんと聞いて頂き小学校生活は始まりました。

入学をして初めての給食の日、1時間目の授業は担任の先生のご配慮で(年配の女性の先生でした)小学校一年生には難しいとはいえ、わざわざ食物アレルギーの授業に変えてくださり、小学校一年生にわかりやすく食物アレルギーの話を、そして私たちのまわりにはたくさんの人がいて、その中には身体に障害を持っている人、生まれつき病気を持って生まれてきた人、自分と少しだけ違う人や色々な人がいます。それをみんなで助け合って、支え合って生きていく
そんな授業をしてくださいました。そして最後に「このクラスにも食物アレルギーを持っている友達がいます」とシエナを紹介してくださいました。
そんな担任の先生や給食の先生、クラスの保護者の皆様、そして校長先生はじめ、学校側のご理解とお支えを頂き、楽しく小学校生活を送れることができました。

中学に入ってもアレルギーは変わらずでしたが、代替え給食のスタイルも変わらずやって頂きました
ただ、親とではなく友達同士で遊びに行くことが増えてくる年頃、どこかで何かを食べるような外食やお祭りなど縁日の屋台の食べ物(屋台はかき氷以外はほとんど粉物のため全滅です)なのでお祭りや花火大会に行っても、シエナはおにぎりを持っていくか、お祭りの前にご飯をしっかりと食べてから行く、そんな感じでした。思春期の本人にとっては本当に辛かったと思います
小学校の時、「祇園際や小満祭などお祭りは好きじゃないから家にいる」と言っていた言葉を今でもしっかりと覚えています。「パパもお祭りとか嫌いなんだよ」そう言うしかありませんでした…(実際僕自身お祭りなどは微妙ですが…)

イタリアレストランをやっていながら、息子が食べに来ることはありませんでしたし、我が家には小麦粉や卵も一切ありませんでした。外食はほとんどなく、たまに行くのはスシローくらいでした。(だからからの年齢制限では決してありません)外食に行き、アレルギーを伝えるとめんどくさい客が来たような顔をされたり、露骨に入店を断られたり…
そんな時にシエナは、決まって僕らに「せっかくご飯来たのにごめんなさい」と言うのです
それが僕らには何より辛かったのです。

本人は知らないと思うけど、僕らにはルールがあって、旅行やどこか出かけた時の食事は、僕はシエナが食べられる内容の料理を(小麦や卵が含まれない料理を)必ず注文する。優子さんは娘もいる以上、娘がお兄ちゃんに気ばかりを使わせないように、娘が食べたい物を(パスタやうどんを)一緒に注文して食べる。こんなルールでずっとやってきました。

甘いものが大好きな息子に、優子さんは時間を見つけては米粉や豆腐などを使って、シエナの食べれるケーキやクッキーを焼き、15年前は不慣れで悲惨なお菓子もあったけど、今では小麦粉っと必要ある!っと思うくらいのお菓子を焼いています!
そして、この10年で一番変わったのが、小麦粉や卵など5大アレルゲンを除去し米粉やトウモロコシ粉を使ったパンやうどん、パスタやお菓子がスーパーにも並ぶようになったことです。
このおかげで本当に助けられていました。またシャトレーゼさんの小麦、卵不使用のふわふわのショートケーキ(ホールサイズ)のおかげで誕生日も楽しく過ごせました。
アレルギーを毛嫌いするお店もあれば、アレルギーに優しい企業も増えてきたのです
食物アレルギーを持つ親にとっては、本当にありがたいことなのです。

中学受験を終え、高校の合格が決まり、それを機にシエナは新しいアレルギー治療をはじめることにしました。
すでに数年前から始まっていた治療でしたが、受験勉強にも影響をするため、高校が決まるまで、あえてやらなかった負荷試験という治療で、最初はうどんの麺(1本の麺を2センチくらいの長さに切っただけのたった数グラムの量)を毎日食べます。何か異変があればやめたり、量を減らすなど病院の先生の判断になりますので、最初は入院をして始めました。
その2センチくらいの麺を1週間食べ、体に異変がなければ、1.2倍に増やし、また1週間、そしてまた1.2倍に増やしてを繰り返し、身体に小麦は悪者ではないよと教えていくのです
卵に関しても同様で、完全に火を通した炒り卵をみじん切りにし、耳かき一杯の量から同じようにやっていきます。
卵は耳かき一杯でも具合が悪くなり、小麦が少し落ち着いてきてから、また始めました。それでも卵は、耳かき一杯ですら身体が受け入れてくれるまでは本当に大変でした。
そんなことを毎日毎日繰り返し、半年前にはうどんだったら、かけうどん半分くらい、パンだったらトースト半枚くらいまで食べれるようになり、ずっと憧れていたポッキーをデビューすることができました!
泣きそうなくらい本当に美味しかったらしく、それ以上に、15年間ずっと見て見ぬ振りをしていたスーパーの小麦お菓子コーナーでポッキーを買える夢のような現実が来たことに本当に嬉しそうでした!
ポッキーもケーキもクッキーもラーメンもうどんも、みんな物心つく前から知らず知らずに食べているから、初めて食べた日や初めて食べたという感動はないでしょう。彼はポッキーを初めて食べた日を一生忘れないのです。
『大袈裟に言うと生まれ変わったみたいな感じ』だと息子は言ってました!

そんなシエナも2年間という負荷試験の時間のおかげで、うどんならかけうどんを一杯食べれるまできました。

だから今回の博多旅行は、太宰府天満宮に合格祈願の旅行でもありますが、それだけでなく、『うどん発祥の地』博多でうどん屋さんデビューをする旅行でもあるのです。

そんな先日、優子さんとシエナは佐久病院に食物アレルギーの経過を聞きに行ってきました。

結果は…
「小麦、卵ともにアレルギーは無くなりました。これからは普通に食べてもらって大丈夫です。博多に行ったら博多ラーメンも食べれますし、屋台でおでんの卵も注文できますよ! なので、おもいっきり博多旅行楽しんできてください!」と先生が本当に嬉しそうに言ってくださったそうです。
ただ、まだ生卵やマヨネーズ、非加熱の卵はもうしばらく様子を見ながらにしましょうとのことでした!

シエナが小学校に入学した頃、「ラーメンて美味しいの?」と聞かれ「あんまり美味いもんではないよ」と答え、(世の中のラーメン屋さんごめんなさい…)「いつかシエナが食べれるようになったら一緒に食べに行こうか」と約束をし、シエナには内緒で、その日から僕はラーメンを絶ち10年が経ちます。
昨日博多に来て、今日は天神に来ています。せっかくの博多旅行ということで、助やの金子君からLINEが届き、金子君おすすめのラーメン屋さん『長浜No. 1』に明日行こうと思っています
シエナにとっては記念すべきラーメンデビューの日になります

今日は太宰府天満宮で合格祈願をし、水炊きをいただき、福岡城址公園に満開の桜を見ながらの出店のクレープデビューをしています
一昨日は、僕の母親の誕生日、シエナにとって、おばあちゃんの誕生日は、ハニーココでバースデーケーキを買って、初めてのスポンジケーキデビューをしました。

僕らが当たり前に食べている物が、彼にとっては、これからもいつも大切な記念日になるのです。
辛い思いをした17年は決して代償ではなく、これからの人生を素晴らしい時間に変えてくれる魔法だと僕たちは思いたいです
そして、彼には素敵な人生を送ってほしいと親として切に思います

シエナは、私にとってヒロッシーニの料理の原点であり、料理に携わり続ける僕らに生まれべきして生まれてきた子供だったのだと改めて誇りに思い、そしてアレルギーを治してくださった神様やお医者さんをはじめ、今日までお気遣いをしてくださった全ての皆様に感謝したいと思います。
17歳年間支えてくださり本当にありがとうございました。 ー中山弘ー

ちなみに写真は…
今回の旅行で、娘の一番食べたかった『呼子のイカの姿造り』です!